第6話 分からないという壁
登録完了の文字が画面に表示されたとき、
貴子は思わず深く息を吐いた。
たったそれだけのことなのに、妙に緊張していた。
副業サイトへの登録。
メールアドレスを入力し、名前を登録しただけ。
それだけのことなのに、自分の人生が少し動いたような気がした。
もちろん、まだ何も始まってはいない。
仕事を受けたわけでもない。
応募したわけでもない。
ただ“入口”に立っただけだ。
それでも、昨日までとは違う場所に立っている気がした。
貴子は、少し震える指で案件一覧を開いた。
思った以上に、たくさんの仕事が並んでいた。
ライティング。
データ入力。
動画編集。
画像作成。
SNS運用。
オンライン秘書。
営業代行。
テレアポ。
――こんなにあるの。
驚きながら、画面をスクロールする。
どの仕事も、自分が知らなかったものばかりだった。
副業といえば、もっと単純なものだと思っていた。
けれど、実際には小さな会社のようにさまざまな役割が存在していた。
その中で、貴子の目に留まったのは、
「リスト作成」
「営業メール送信」
といった案件だった。
――これなら、できそう。
事務職として働いてきた自分に近い気がした。
資料をまとめる。
データを入力する。
メールを送る。
会社で何年もやってきたことだ。
少なくとも、動画編集やデザインよりは現実味があった。
そう思って募集ページを開く。
だが、そこからだった。
文章を読んでも、よく分からない。
「指定条件に沿ってリストアップをお願いします」
「営業用テンプレートを用いたフォーム送信」
「見込み顧客の抽出経験歓迎」
「CSV納品」
「Googleスプレッドシート管理」
――え?
貴子は眉をひそめた。
なんとなく意味は分かる。
けれど、“具体的に何をするのか”が見えてこない。
リスト作成とは、何をどこまでやるのか。
企業名を調べるだけなのか。
電話番号も必要なのか。
住所は?
担当者名は?
メール送信も同じだった。
テンプレートを送るだけなのか。
文章を考える必要があるのか。
何件送るのか。
失礼があったらどうなるのか。
読めば読むほど、分からなくなる。
思っていたより、ずっと難しそうだった。
――事務経験があるから大丈夫だと思ったのに。
貴子は小さく肩を落とした。
会社でやってきた事務と、
“外で仕事として求められる事務”は違うのかもしれない。
同じように見えて、まるで別物に感じた。
それが少し悔しかった。
長年働いてきた経験がある。
それなりに仕事はこなしてきた。
なのに、その経験がそのまま通用するわけではない。
そんな現実を突きつけられた気がした。
案件ページを閉じ、また別の案件を開く。
けれど、やはり同じだった。
“初心者歓迎”と書いてあっても、
何をどこまで求められるのかが分からない。
“簡単”と書いてあっても、
本当に簡単なのか判断がつかない。
貴子はスマートフォンを置き、目を閉じた。
思ったより、世界は広かった。
そして、思ったより、自分は知らなかった。
会社の外で働くということが、
こんなにも未知の世界だとは思っていなかった。
それでも、不思議とやめたいとは思わなかった。
むしろ逆だった。
分からないからこそ、知りたくなった。
知らないままで終わりたくなかった。
貴子は再び画面を開いた。
今度は案件ではなく、
「リスト作成とは」
「営業メール送信業務とは」
と検索する。
解説記事や体験談がいくつも表示された。
それを一つずつ読み進める。
少しずつ、仕事内容が見えてくる。
なるほど。
そういうことか。
そう理解できるたびに、
ほんの少しずつ世界の輪郭がはっきりしていく。
知らない言葉が、
知っている言葉に変わっていく。
その感覚が、少し嬉しかった。
気づけば、かなり時間が経っていた。
時計を見ると、もう深夜に近い。
こんな時間まで何かに夢中になるのは久しぶりだった。
それほどまでに、今の貴子はこの世界に惹かれていた。
――もしかしたら、本当にできるかもしれない。
まだ何もしていない。
何一つ始まっていない。
それでも、昨日よりは確実に前に進んでいる。
そう思えた。
貴子は、気になった案件をお気に入り登録した。
応募は、まだしない。
まだ怖い。
まだ不安だ。
でも。
“いつか応募したい”と思った案件を保存する。
それだけでも、
昨日までの自分にはなかった行動だった。
画面に並ぶお気に入り一覧を見ながら、
貴子は小さく息を吐いた。
知らない世界は、怖い。
でも。
少しだけ、面白いとも思っていた。
第7話へ続く。。。
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