第7話 返信が来ない夜
「応募する」ボタンを押すだけなのに、
貴子は十分近く画面を見つめていた。
本当にこれでいいのだろうか?
文章は失礼じゃないか?
年齢を書いた方がいいのか?
初心者と正直に書くべきなのか?
何度も読み返しては修正し、また書き直す。
会社のメールなら、こんなに悩まない。
けれど、これは“会社の関根貴子”ではなく、“個人の関根貴子”として送る初めての応募だった。
胸の奥が落ち着かない。
パソコンの横に置いたコーヒーは、すっかりぬるくなっていた。
時計を見ると、もう二十三時を過ぎている。
明日も仕事だ。
早く寝なければいけない。
それなのに、貴子はまだ応募文を見つめていた。
「よろしくお願いいたします」
最後の一文すら、本当にこれでいいのか分からなくなる。
こんなに緊張するなんて思わなかった。
ただ応募するだけ。
それだけなのに。
会社では毎日のようにメールを送っている。
取引先とのやり取りだって普通にこなしている。
なのに今は、たった数行の文章が怖かった。
それはきっと、“会社”という肩書きがないからだった。
会社員としての自分ではなく、
“関根貴子個人”として評価される。
そのことが思った以上に怖かった。
――やるって決めたじゃない。
貴子は小さく息を吸い込み、
意を決してボタンを押した。
送信完了。
その文字を見た瞬間、肩の力が抜ける。
たったそれだけなのに、ひどく疲れた。
背もたれに身体を預け、天井を見上げる。
なんだか、面接を終えた後みたいだった。
応募したのは、企業情報をまとめるリスト作成の案件だった。
初心者歓迎。
マニュアルあり。
コツコツ作業できる方歓迎。
自分にもできそうだと思った。
むしろ、今までの事務経験が役立つかもしれないとさえ思った。
だが、送信したあとから不安が押し寄せてくる。
変な文章じゃなかっただろうか。
年齢で不利にならないだろうか。
“初心者”と書いたのは失敗だったかもしれない。
気づけば、またスマートフォンを手に取っていた。
返信はまだ来ない。
当たり前だ。
送ったばかりなのだから。
それでも気になる。
通知音が鳴るたび、心臓が小さく跳ねる。
けれど届くのは、通販サイトのメールやニュース通知ばかりだった。
翌朝も同じだった。
満員電車に揺られながら、スマートフォンを見る。
返信なし。
会社の昼休み。
コンビニで買ったサンドイッチを食べながら確認する。
返信なし。
仕事帰り、スーパーのレジ待ち中にも確認する。
返信なし。
そのたびに、胸の奥が少しだけ沈む。
たった一件の応募なのに、こんなにも気持ちが振り回されることに貴子自身が驚いていた。
数日後。
返信は、まだ来なかった。
貴子は少し迷ったあと、別の案件にも応募してみた。
メール送信業務。
データ入力。
簡単な事務作業。
“初心者歓迎”という文字を探しながら、少しずつ応募数を増やしていく。
けれど、応募するたびに緊張した。
応募文を考えるだけで一時間近くかかることもあった。
どこまで自分をアピールするべきなのか分からない。
「事務経験があります」
そう書いても、在宅ワークの世界でどれほど意味があるのか分からなかった。
会社で積み重ねてきた経験が、急に薄っぺらいもののように感じる瞬間があった。
応募ボタンを押すたび、
自分が試されている気がした。
そして。
返信は、ほとんど来なかった。
来ても、
「今回は見送らせていただきます」
という短い文章だけ。
それすら届かない案件も多い。
既読にもならないメッセージ画面を見つめながら、貴子は呆然とした。
――こんなに返事が来ないものなの?
会社員として働いてきた人生では、応募して無反応という経験がなかった。
面接を受ければ結果は来る。
採用でも不採用でも、返事はある。
けれど、この世界は違った。
何も返ってこない。
自分の存在ごと、画面の向こうへ埋もれていく感覚。
それが想像以上に苦しかった。
夜。
パソコンを閉じたあとも、気持ちが落ち着かなかった。
ホテル予約サイトをぼんやり眺めながら、貴子はため息をつく。
月に一度のホテルライフ。
以前は、その予定を考えるだけで少し気持ちが軽くなった。
けれど最近は違う。
ホテルに行っても、副業のことばかり考えている。
応募。
返信。
仕事。
在宅ワーク。
頭の中が、そればかりになっていた。
自分には向いていないのだろうか。
やはり若い人の世界なのだろうか。
そんな考えが、少しずつ頭をよぎる。
副業動画では、みんな簡単そうに話していた。
「初心者でもできます」
「未経験から始めました」
「在宅で自由に働けます」
けれど現実は、そんなに簡単ではなかった。
返信すら来ない。
それだけで、自分が否定されたような気持ちになる。
貴子はスマートフォンを伏せ、ソファに身体を沈めた。
疲れた。
会社の仕事だけでも十分疲れているのに、その後に“知らない世界”へ挑み続けるのは思った以上に消耗した。
それでも。
不思議と完全に諦める気にはなれなかった。
もし本当に諦めたいなら、
とっくにサイトを閉じているはずだ。
なのに貴子は、今日も案件一覧を見てしまう。
新着案件。
初心者歓迎。
在宅可能。
その文字を見るたび、心が少しだけ動く。
怖い。
でも、気になる。
その感覚だけは、まだ消えていなかった。
そして貴子は、眠る前にもう一度だけ、副業サイトを開いてしまうのだった。
第8話へ続く。。。
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「何かを始めるのに、遅すぎることはない。」
そんな想いを込めて書いた物語です。
もし少しでも気になりましたら、ぜひ手に取っていただけると嬉しいです。
これからも短編・長編を問わず、さまざまな作品をお届けしてまいります。今後とも応援よろしくお願いいたします。

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